箱バルの建築家、富樫の渾身のプロジェクトです!
十字街のカルチャーセンターを引き継ぎ次世代に繋いでいく覚悟、是非ご一読いただきたい。
以下、合同会社富樫雅行建築設計事務所HPより
十字街 カルチャーセンター臥牛館リノベーション
このたび、合同会社富樫雅行建築設計事務所として十字街にある「カルチャーセンター臥牛館」を7月より、株式会社池見石油店から引き継ぐこととなりました。
現在4階建てのこの建物は1階に「十字街商盛会」「学童クラブひのてん」2階に「木村ダンススクール」「Rダンスカンパニー」3階に「学徒援農資料室」4階に「高橋海堂先生の書道教室」を有する文化施設として利用されています。
建築年は不詳ですが昭和9年の函館大火を生き延びたとされ、昭和8年出版の大日本職業別明細図には大森海産店の記載が残り、登記簿類も消失した大火後昭和10年の回復登記の際から大森海産店の記録が今に残る。
その後、北海道農業會、道南生産農業協同組合連合會、高木薬品と引き継がれ昭和37年、昭和45年と増築を重ね、平成11年に池見石油店が取得し翌年の平成12年に当時の池見石油店社長石塚与喜雄社長が文化活動による西部地区の活性化を願い「カルチャーセンター臥牛館」としてオープンした。
池見石油店は地域のエネルギーを縁の下で支えながら、これまで西部地区の海産商同業組合事務所など多くの建物を守っては次の担い手へと継承してきました。
この建物の活用に関しては、以前より相談を受けておりましたが、エネルギー業界の大変革もあり維持活用まで手が回らなくなったことで、これまでの想いも含め同じ西部地区で活動する当社に建物を引き継いで未来に残して欲しいとご相談がありました。
私自身、この建物とその地域性にはとても可能性を感じておりました。
大正10年の大火後に防火線の指定を受け耐火建築物の街並みを形成する地元民の行き交う銀座通りと、観光地のど真ん中でもある赤レンガ倉庫群との中間に位置した空白地帯のような場所を、もう少し地元の人が利用でき行き交う場所にできるのではと。
また、西部地区の古民家再生をうたって地域に根ざしこの7年でこの地区の14軒ほどのリノベに携わってきたが、いざ街の中心部をみて見ると駅前の大門周辺などは中央資本ホテルの建設ラッシュで、もはや函館大門地区の独自性は失われつつある。
銀座通りの耐火建築物群も空きテナントが遊休不動産として目立ち、じわりじわりとその開発の波が西部地区に近づいてきているのを日々感じている。
この規模の物件は中々民間の手には追えず只々静観しているだけだった。思い掛けずにも、このようなお声掛けを頂いた時には、まさか年収300万、昨季法人成りしたばかりで赤字を叩いてしまった自分の器には無理だと決めつけてしまった。
でもこのまま自分にこなせるだけの仕事を続けながらの余生は想像するに容易いことだが、2020年には40歳となり年齢的にも体力的にも一番無理が効く今やらないで一生を終えるより、失敗してもやり切って終える方に賭けたいと思った。
ましてや誰にも明日があるなんて保証はない。これまでのように自分のやりたい道を選択することで、家族に迷惑ばかり掛けてしまうのだが、絶対失敗するなと釘を刺されつつ厳しくも優しく背中を押してもらった。家族や地域に暮らす子供達の為にも頑張りたいし、これが自分の天職なのだから。
まず自分が実践して古民家再生の可能性を地域に広めようと「拝啓 常盤坂の家を買いました」を始めてから早8年。リスクも大きいが自分に出来ないものを人に勧めたりは出来ない。
人口減少の荒波の中でこうした物件は益々増えていくと思う。
自分が試行錯誤しながら、この1,160m2を超えるビルをどう再生し未来に引き継ぎながら街を活気付けて行けるかを実践したいと思う。
現実的には現在の空室率55%では、年間収支は3桁近くの赤字。それを時間を掛けずどこまでプラスに転じられるか。
多くの銀行は3年早いとか無理無理とか軽くあしらわれたが、公庫のみが、これまでの活動や実績からその僅かな可能性を見出してくれて今回の融資を引き受けてくれた。
10月には弊社事務所もカルチャーセンター内に移転し、まさかまさかのの挑戦が始まる。
十字街はじめ西部地区や函館市民の益々の地域活動の活性化の一助になれればと思います。
まずは略儀ながらご挨拶とご報告に返させていただきます。
今後ともご指導ご鞭撻賜りますようお願い申し上げます。
敬具 令和元年7月吉日(今日22日は息子の源4歳の誕生日と相成りました) 合同会社富樫雅行建築設計事務所 代表 富樫雅行