「働く」と「場」

「大きくなったら、何になりたい?」
僕は中学生まで本気でサッカー選手になりたかった。
学校以外のほとんどの時間はサッカーをしていたし、
Jリーグも開幕したし、それ以外になりたいものなんてなかった。
ジュニアのサッカースクールや地元のサッカー教室、休み時間、
大会、とにかくボールが蹴れれば楽しかったし、負ければ悔しくて涙が出た。
でも、中学校3年生のときに、ふいに
「俺はもしかしたらサッカー選手になれないかもしれない」
という思いが出てきた。
なぜだったかは思い出せないけど、そう思った。
そうするとなんだか自分の居場所が一気になくなってしまったような感じがした。
サッカー選手にしかなりたくなかった、サッカーさえ出来ればよかったのに、
それがなくなってしまったことで、もはや自分は何にもやることがない、
本当にそう思ってすごく投げやりな気持ちになった。

 いま僕はパン屋を営んでいる。
紆余曲折しながら、自分で選んだ仕事だ。
毎日充実した気持ちとまだまだだという気持ちで日々営んでいる。
そこには自分で考えて自分の仕事を作り、自分の居場所を、もっと言えば
社会の中での自分の居場所や社会との接点を作っている、という感覚だ。

中学生のころの自分が将来何をやっているかなんて全然分からなかったし、
本気で考えていたかさえ怪しい。
でも、あの自分の居場所がなくなってしまった感覚は今でも覚えている。
翻って、自分が今の仕事や暮らしを作る前はどうだっただろうか。
大学や様々なバイト先、そこでもやはり自分の居場所があっただろうか。
おそらく自分で選んだ大学やバイト先ではあっただろうが、
今のような「場」感覚とは少し違ったように思う。
一番の大きな違いは、やっぱり自分で考えて作っていたかどうか、だと思う。
既に誰かがなんらかの形で築きあげた「場」に自分を潜り込ませ、少しずつそこに
フィットしていく、どちらかと言えばそういう感覚で過ごしていたと思う。
それはそれで楽しいし、住んでしまえば都ではないが、慣れてしまえばあとは流れに身を任せていられる。
でもどこか自由度や満足感はいつも得られない。

人の一生のうち、仕事に割く時間はいったいどのくらいだろう。
ものすごい時間を割いていると思う。
その人生の大半の時間を割く仕事がつまらなく、満足感も自由度もないものだとしたら、
と僕は考えた。もちろんどこか自分がピタッとはまる最上の仕事にフィットしていく人も大勢いるだろうから僕の事として書こうと思う。僕は自分の仕事は自分で作りたいと思った。そしてその仕事を通じて自分の居場所を作りたいと思った。
成長や経済の成熟のためには働くことの意味の有無を考えること自体気にしていられない、「仕方ないだろう、やるしかないんだよ」というエクスキューズからの転換。自分の人生の大半を占める「働く」ということとその「場」を自ら作って楽しく暮らす。
いま箱バル不動産でやっていることもまさにオーバーラップしてくる所である。
楽しく暮らすというのはワーキャーするだけでなく(もちろんそんな時もある)じっくりと腰を据え、作戦を練ったり、ときには意見が食い違ったり、思うように事が運ばずにジリジリしたりと様々だ。でもその様々を感じられるのは誰かに言われたからとかではなく自分たちで考えて、自分たちで作っているからだ。時に失敗、時々成功、また失敗、みたいな日々で、それがすべて自分たちのものなのだ。

サッカー選手にはなれなかったけど、いまでもサッカーは時々やっているし(有志で集まる草サッカーだけど)、そこでの走れなさを考えると、サッカー選手よりいまの方が賢明だったなと思ったりもします(笑)。

箱バル不動産 苧坂淳

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